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# エッセイみたいな。 # 書評とか。

『新しい分かり方』書評/エッセイ

Ritsuki

2021/04/11

近頃、”わかる”ということがわからなくってきた。何をもって「わかる」と言うのか。その使われ方や定義が曖昧模糊としていて、しっかりと認識することができない。

「それ、すごいわかる」「わかるわかる」—日常生活でよく誰かに賛同する時に使われる。「犯人がわかる」「やっと彼の名前がわかる」—何かが判明した時に使われる。「彼の言わんとしていることがわかった」「そのことがやっとわかった」—何かを理解した時に使われる。

普段、意識せずに使う言葉ではあるが、こうして例文を添えてみると、意外にわかったことがある。「三角関数がわかった」とはあまり言わない。「その知識がわかった」も。これらの場合、「理解した」が適当であろう。つまり、どこか「わかる」には浅い意味がある。どちらかといえば、感覚的なのだ。

そう考えると、合点がいくことが多い。日常生活で誰かに賛同する時、特に「わかるわかる」などとクイックなレスポンスや浅いレベルでの返答をする時に「わかる」が使われるのは、しっかり考えてではなく、感覚的にわかっているからであろう。また、誰かの話をしっかりと聞いて、「よくわかります」と言うのは、どちらかといえば、相手に感情移入して出てきた言動であろうから、要するに感覚的なのだ。

また、一瞬で霧が晴れたようにパッとわかることもある。長らくわかっていなかった犯人がやっと「わかった」。彼の名前がやっと「わかった」。この場合、よく「やっと」が添えられる。長く考えていたものが、一瞬にして、判明した。そんな「わかる」という感情である。もし、長い議論の末、論理的に判明したものであれば、つまりゆっくりと霧が晴れていくような感覚であれば、犯人をようやく「理解する」ことであろう。感覚的にイメージとして視覚的に入ってくる「わかる」という感覚である。彼の言わんとしていることがわかったのであれば、それはしっかり考えて出てきたものというよりはひらめきに似た啓発なのだとわかる。

「わからない」を考えてもいい。「三角関数がさっぱりわからない」とは言う。「その概念が全くわからない」と。何も光るものがない。何も響くものがない。そんな意味で、何もわからないのである。全くわからないのである。

こうして考察を進めると、今まで漠然としてきた言葉の心象がある程度ぼんやりながら輪郭を見せてきた。

そして、また、そこに新しい感覚をもたらすものがある。『新しい分かり方』である。これまで自分の中で曖昧ながら確かに存在してきた「わかる」という感覚の所在が新たな視点を得ることではっきりしてくる。視覚的に入ってくる情報から「わかる」もの。そして、その「わかる」に至る過程。また、「わからない」こと。そんな様々な角度から「わかる」ことに光を当て、「わからない」ことを認知させる。そんな中で、我々は、「わかる」ことをはっきりと「わかり」、「わからない」の影として「わかる」が「わかる」。

何を言っているか「わからない」かもしれないが、本書を読めば、その一つの面くらいは姿を見せてくれるのではないだろうか。どう、認知するか。この議論は、認知学の世界にも足を踏み入れることだろう。クオリアなども。

締まりが悪くなったが、我々は、わかることができる。どうわかるかはわからないが、確かに存在する面白い感覚である。その不思議さと感動を味わう。その感覚くらいわかってもいいんじゃないか、そうわかる。

 

新しい分かり方』佐藤雅彦(中央公論新書)

適当にまとめました。