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# 書評とか。

『思考の整理学』書評

Ritsuki

2021/04/11

 「一冊」からはじまる体験はいくつもある。

少年ながら探偵の推理にドキドキハラハラした江戸川乱歩著『怪人二十面相』。覚悟の大切さを学んだ夏目漱石著『こころ』。数学の情熱やおもしろさを肌で感じたサイモン・シン著『フェルマーの最終定理』など。

読書が導くものは多くある。人生観を学び、恋を疑似体験し、未知の冒険に胸を踊らせる。「生きるとは何か?」と哲学的な問いを抱くこともある。自分の弱さを見つめ反省する。本の主人公に憧れる。そして、一歩を踏み出すことも。

自分を形づくっているものが本だと思う。たくさんの本に出合い、たくさんの本から学び、たくさんの本と考えた。すべての体験、すべての思考は本が与えてくれた。この知的活動は自ら続けていかなければならないが、続けることに今は楽しさを感じている。ただ、このような思考になったのはある一冊と出合ってからだ。それまでの僕は勉強など面倒で役には立つとわかっていながら、モチベーションがわかないでいた。学校から帰ってテレビを見て、一日をだらだらと過ごす。

ある時、自分を大きく変える一冊と出合った。まるで本屋で目があったような感覚だった。今までこの類の本を読んだことはなかったのに、手を伸ばしページをぱらぱらとめくった。「これを買おう」と思い、他の本には目もくれず、その本を購入した。家に帰って、読み進めた。このような世界があるのかと、驚きにも似た感情が飛び込んできて、一気に読んだ。その後、この本の中の言葉は、高校受検の面接の前の待ち時間でも緊張している自分を励ましてくれた。それだけではない。この本は、たくさんの本へと僕を導いてくれた。そして、自ら学び、自ら本を読むことの大切さを教えてくれたのだ。

この一冊とは、外山滋比古著『思考の整理学』である。思考のための様々なエッセンスや実践法が紹介されている一冊だ。本書では、台頭してきたコンピュータに対して人間がやるべきことについて説かれている。コンピュータは知識の倉庫として用いられているため、真に人間らしくあるために機械の手の出ない創造性を発揮するしかないと筆者は語っている。自ら飛翔する力、いわば知的活動へのエンジンをもつためには、与えられた知識を整理する「知る」知的活動ではなく、自らの新しい解釈を作り出す「考える」知的活動が必要だと。

僕は、本書を読んで、自身の知的生活をスタートさせた。今までのだらだらとした日常ではなく、家に帰って、本を開き、勉強し、学んだことをアウトプットする生活。僕は本書読了後、すぐにアイディア帳を作った。考えをまとめ、それらをアウトプットするためのもので、本書での紹介通りベッド脇にも置いてある。また、読んだ本から学んだことの感想を書き付けるノートも作成した。何が大事で、何が要点で、という整理だけでなく、自らが考えたことを書き記すノートだ。

すべては自ら学び、アイディアを生み出し、そのアイディアを寝かし、発酵させ、形にするという本書の精神から学んだ。そして、このような精神を軸とした僕の知的生活は、今も続いている。

僕は、本書から与えられた洞察を原動力に自分から多くの本を手に取り、読み進め、コンピュータに関する専門的な技術や数学の知識、そして人生の教訓までたくさんのことを学び、自分の知識や教養を広げている。そのような学びの中の多くの本は、すべて本屋や図書館で偶然手に取った一冊だ。本との出合いは、どこか人との出会いにも似ている。だからこそ、作者からのメッセージを丁寧に感じ取りながら作品と向き合い、自ら考えなければならない。『思考の整理学』以来、たくさんの本との、いわば「出会い」を果たしてきた。

このような巡り会いを象徴する言葉が本書で紹介されている。「セレンディピティ」––目的としていなかった副次的に得られる研究成果の意味だ。本との出会いは、セレンディピティだ。読もうとしたきっかけ以上に、大きなものが得られるからだ。僕たちはそれらに心動かされ、一歩を踏み出す。あるいは、ともに思考する。一冊一冊との出会いが、僕たち一人一人にそれぞれ違うセレンディピティをもたらす。

今、振り返ると、本書との出会いが僕にとって一番大きなセレンディピティだったと思う。これからも、この一冊を片手にたくさんの本の世界を旅したい。その一冊、あの一冊、この一冊。全てに大きな「思いがけない発見」があることを信じて。まずはそう思わせてくれる一冊に巡り会えたセレンディピティにひとまず大きく感謝し、僕は今日も一歩を踏み出す。そして、これからも。

「一冊」からはじまる体験はいくつもある。

 

思考の整理学』外山滋比古(ちくま文庫)

適当にまとめました。